2013年4月7日日曜日

連載「その時歴史は動いた……り,動かなかったり」第2回:オーストリアでフリードリヒ大王退治_1

 当然ながら軍制改革にも着手,微妙に腹立たしいが,この時代最強の陸軍形式である「フリードリヒ大王型歩兵」に転換する。  途中,なぜかポーランドがロシアに宣戦して泥沼の戦争が10年くらい続き,やがてポーランドが降伏して領土をロシアに割譲するとかいった不思議歴史が展開されたものの,ドラゴンクエスト10 RMT,このタイミングを突いてプロイセンからオーストリアに宣戦布告とかいった展開にはならなかったので,よしとする。  降伏後のポーランドと再度同盟を締結,ロシアとの関係も最高レベルに維持し,準備は万端である。プロイセン領の正統な支配者に関する史料を偽造して宣戦の口実を得ると,オーストリア軍5万人はプロイセン領内へと……攻め込まなかった。  というのも,意図的に宣戦布告を厳冬期に行ったためである。5万の兵は普墺国境の要塞に篭もり,フリードリヒ大王率いる4万5000のプロイセン軍を待ち受ける。一方,ポーランドおよびオーストリアの同盟国家は次々にプロイセンに宣戦,プロイセン軍は厳冬期に4万5000の軍勢を,国内のあちこちに展開せざるを得なくなった。  EUシリーズにおいて,冬場の行軍はそれだけで軍隊を損耗させる。4万5000の軍勢は瞬く間に数を減らしていき,また多正面作戦の愚を冒したこともあって,オーストリア軍正面にはおよそ1万の兵しか残らなかった。  春になった段階で,オーストリア軍主力はプロイセン領に向かって進軍を開始する。もはや戦争の行く末は決まっていた。オランダがプロイセンに加担して戦争に参加したが,その程度で何かが変わるわけではない。フリードリヒ大王はポーランド領深くに侵攻して行ったが,要するにこの戦争は,1か所で負けても2か所で勝てばよいという,1813年のナポレオンでも頭を抱えそうな話なのだ。  だが,あろうことかここで突然フランスがオーストリアに宣戦布告。友好度は+200と最高値であったにもかかわらず,ルクセンブルクやベルギー付近のオーストリア領に容赦なく攻め込んでくる。これはおそらく,中部ヨーロッパに新たなスーパーパワーが生まれることを未然に阻止すべきだという,彼らにしてみればたいへん賢明な判断のすえに違いない。  プロイセンの息の根を止めたいところではあるが,これ以上,小者にかかずらわって戦争を続けると,イタリア経由でオーストリア本国までの侵攻を許しかねない。泣く泣くプロイセンおよびオランダと和平を締結,賠償金を得るとともにシュレジェン領要求を取り下げさせることには成功したが,出費と比較して,あまりにも小さな勝利でしかなかった。  その後オーストリアとフランスの戦争は10年以上続き,やがて双方とも消耗しきって,戦争は「なかったこと」として和平が締結された。……思うにフランスでは革命が10年は早まっただろうし,オーストリアは没落までのカウントダウンを10年分くらい急いだような,そんな無意味な戦争であった。  ついでに言うと戦場になった北イタリアでは,100年くらい歴史が後退したようだし,交通事故同然にヴェネツィアも轢死した。オーストリア主導による大ドイツ主義は,ドラクエ10 RMT,プロイセン撃破に成功しつつも,見事にヨーロッパを破綻させたのである。……やっぱり外交革命(仏墺同盟)って大事だったんだなあ。
関連トピック記事:

0 件のコメント:

コメントを投稿